佐陀川

多久の折絶に宍道湖と日本海を結ぶ放水路

佐陀川は、風土記時代には,太平山一帯からの西流する多久川(現在の講武川)と鹿島町仲田付近からの流れ出た川が合流して佐太川とよばれ、南下して佐太水海へと注ぎ込んでいた。講武川のある谷は断層線が侵食されてできた谷(断層線谷)で、さらに西の恵曇方向へと延長している。その途中の鹿島町本郷には恵曇陂(えともつつみ)や池があったとされ、江戸期の地図には日本海へ流れ出す忠太夫川(江戸期の名称)が恵曇に描かれている。すなわち、島根半島のこの一帯は東西と南北方向の水系がT字型の原形をしていた。清原太兵衛が主導した開削工事の記録は残っていないが、江戸期天明年間(1785~1787年)にこのような水系の改修によって日本海と宍道湖をつなぐ水路としてつくられたのが総延長約8kmの佐陀川である。当初は宍道湖の洪水対策を目的としていたが、日本海との河道傾斜勾配が小さく(10cm程度)十分な機能は果たせなかった。

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